高瀬舟 森鴎外

鴎外自身がコメントしているがこの話には二つの大きな問題が含まれている。ひとつが、財産というものの観念であり、もうひとつは、死に掛かっていて死ねずに苦しんでいる人を死なせて遣るということだ。つまり知足と安楽死がテーマとなっている。

 

高瀬舟は、罪人を島流しにする際に高瀬川を上下する小舟だ。庄兵衛が護送を務める船に、喜助という男が乗ってきた。通常の罪人であれば、これからの島流しを嫌がり悲しむのが通常なのだが、喜助はさっぱりした顔をしている。島流しのためにもらった少額のお金を今までこのような大金を持ったことはないとありがたがり、島流しの先で生きていけることを受け入れている。庄兵衛は、その様子を見て、自分もより大きなお金を受け取ってはいるが、同時に使ってしまっていて、手元にお金がないことを考えれば喜助と同じである一方、それに気づかず失うことを恐れ、よりお金が欲しいと思っている。喜助は、欲がないように見え、踏み止まることができる人だと感心する。罪は何かと喜助に聞くと、弟が病苦のために剃刀で自殺を図るが、それに失敗したため、私に殺してくれと頼まれたから殺したと答えた。庄兵衛はその条理が分かるものの、お上の判断を知りたいと思った。

 

鴎外はなぜ知足と安楽死の二つをテーマとしたのか。それぞれ一つづでも十分なテーマであるし、その二つのテーマの関係については言及されない。

 

知足できる喜助だからこそ、安楽死を選ぶことができたというだと私は考える。知足ができるということは、死ぬということもひとつの生き方であると受けいれることができるから、弟の意志である弟の死を手伝った。弟の死を手伝うと社会的には殺人になるも、大事な弟を苦しませることなく本人の意志である死を実現させるために、その罪を受け入れた。自分の人生だけを考えている人にはできない行為だ。

 

長兵衛は、何も考えずに生きており、人生であり、死を受けれることはできていない。喜助が弟を殺した行為も、お上の判断を聞きたいということで、自分の結論を出さない。

 

喜助の生き方は、知足ということで、一つの幸せな生き方かもしれないが、一方で弟の病気を治すためにお金を稼ぐよう努力するという生き方もあると思う。そのような向上心は、知足の邪魔になるが、最低限の生活を獲得するまでは必要なことだと思う。

 

向上心と知足の対立が解決されていない点と、自分の価値観で結論を示せない点は保留となっているが、欲だけで生きても幸せになれないということを1916年に指摘している点は先見的だ。