檸檬 梶井基次郎

京都で、病弱で美意識の高い教養ある若者が、丸善に入り画集で城を作り、その上に檸檬を置いて出てくる。そして檸檬を爆弾だと空想して街を歩く。

 

檸檬は、一度読んだら、忘れられない物語だ。感動して泣く、深く心を揺さぶられるとかはない。でも忘れられない。本の上に檸檬が置かれた映像が頭に残る。

この時代の文学にしては、頭に映像が浮かぶ文章だと思う。京都ではない場所に来ていると自分を錯覚させる際に、想像の絵具を塗りつけてゆくとあるが、著者は、色や光に敏感だったのだろう。その後の、主人公が好きだと言う、花火、おはじき、キリコ細工、香水瓶も、その多彩な色に惹かれている。

 

例えば、次の文章のように、色と形が頭に浮かぶ文章で書かれている。

「裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり目の中へ差し込んでくる往来に立って、」

「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘型の身体の中へ吸収してしまって、カーンとさえかえっていた。」

 

そして、タイトルにもなっている檸檬も、重要な色と形を表している。檸檬の黄色とその形は、作者が好きな色であったのだろうし、読者にも否応がなく映像を脳に投影させる。

 

結局、この世界は、自分の脳に浮かぶ映像でしか認識することができず、それをバクらせてしまえば自分にとっての世界は変えられるということをこの時代に表現していた。色や形に敏感で、世界の認識を良く分析し、理解しているからこそ書けた作品なのだろう。

高瀬舟 森鴎外

鴎外自身がコメントしているがこの話には二つの大きな問題が含まれている。ひとつが、財産というものの観念であり、もうひとつは、死に掛かっていて死ねずに苦しんでいる人を死なせて遣るということだ。つまり知足と安楽死がテーマとなっている。

 

高瀬舟は、罪人を島流しにする際に高瀬川を上下する小舟だ。庄兵衛が護送を務める船に、喜助という男が乗ってきた。通常の罪人であれば、これからの島流しを嫌がり悲しむのが通常なのだが、喜助はさっぱりした顔をしている。島流しのためにもらった少額のお金を今までこのような大金を持ったことはないとありがたがり、島流しの先で生きていけることを受け入れている。庄兵衛は、その様子を見て、自分もより大きなお金を受け取ってはいるが、同時に使ってしまっていて、手元にお金がないことを考えれば喜助と同じである一方、それに気づかず失うことを恐れ、よりお金が欲しいと思っている。喜助は、欲がないように見え、踏み止まることができる人だと感心する。罪は何かと喜助に聞くと、弟が病苦のために剃刀で自殺を図るが、それに失敗したため、私に殺してくれと頼まれたから殺したと答えた。庄兵衛はその条理が分かるものの、お上の判断を知りたいと思った。

 

鴎外はなぜ知足と安楽死の二つをテーマとしたのか。それぞれ一つづでも十分なテーマであるし、その二つのテーマの関係については言及されない。

 

知足できる喜助だからこそ、安楽死を選ぶことができたというだと私は考える。知足ができるということは、死ぬということもひとつの生き方であると受けいれることができるから、弟の意志である弟の死を手伝った。弟の死を手伝うと社会的には殺人になるも、大事な弟を苦しませることなく本人の意志である死を実現させるために、その罪を受け入れた。自分の人生だけを考えている人にはできない行為だ。

 

長兵衛は、何も考えずに生きており、人生であり、死を受けれることはできていない。喜助が弟を殺した行為も、お上の判断を聞きたいということで、自分の結論を出さない。

 

喜助の生き方は、知足ということで、一つの幸せな生き方かもしれないが、一方で弟の病気を治すためにお金を稼ぐよう努力するという生き方もあると思う。そのような向上心は、知足の邪魔になるが、最低限の生活を獲得するまでは必要なことだと思う。

 

向上心と知足の対立が解決されていない点と、自分の価値観で結論を示せない点は保留となっているが、欲だけで生きても幸せになれないということを1916年に指摘している点は先見的だ。

こころ 夏目漱石

漱石は、明治以前の日本の美意識であったり、倫理観を持っていた。一方で、急激に日本に入ってきた西欧文化を相対的に見ることができ、日本は必ず西欧文化のように発展しなければならないとは考えていなかった。西欧文化の考え方である自由と自意識の追求は、必ずしも幸せにつながらないということを予見していた。

 

こころの先生は、正にその象徴である。先生は、先生よりも明治以前の価値観に縛られている友達を出し抜いて妻と結婚したことに罪悪感を感じている。つまり、自分の幸せを個人として追求した結果、人を傷つけることで結局幸せになれないでいる。明治天皇の死とともに、先生は自殺する。その思いを、先生より若い世代である私に手紙で残し、将来の若い人に期待を残し、物語は終わる。

 

漱石は、西欧に必ずしも同一化する必要はなく、日本独自に発展していいじゃないという考えを持っていた。さらに明治時代から、現代の個人主義が行き過ぎた場合の孤独を予見していた。

 

今読んでも、日本語は古臭くない。漱石が作り出した日本語が今の日本語の骨格になっていることがよくわかる。西欧の主観と客体を軸とした日本語がこの頃に出来上がり、今も続いているのだ。

 

自由と個人主義漱石の生きていた明治時代より更に強くなり、現代人の孤独はより強くなっていっている。資本主義もそれを強化している。

 

こころは、話の時代背景は古くなっているが、テーマはより現代的になっている。

 

日本の小説を考える上で、最重要な作家であり、漱石が提示したテーマを処理しないと次世代にはいけないだろう。

非属の才能

息子の中学受験に向けて本でも買うかと、過去問の出典を調べていたところ、開成の入試に山田玲司の「非属の才能」が使われているのを見つけた。

30代後半から40代には懐かしいであろうBバージンの作者である。

日本の最高知能の人達を選抜するための試験に、あの山田玲司の本が採用されていると知り、本を買って読んでみた。

本のテーマは、日本の同調圧力や資本主義の単一化で思考停止すると幸せになれないから、自分を信じて、どこにも属さないことに恐れず、自分の考えを持って生きようということだった。

中学受験を盲目的に受けてはいけないと主張している本が、中学受験の最高峰の学校の試験に出るというのも皮肉だがおもしろい。開成の先生が同世代なのではないかと親近感を持ってしまう。

僕も早い段階から、もっと自分の好きなことをしてればよかったと今更ながら思う。親の進める職業とは異なる職業についたものの、正直、おもしろい仕事ではない。ただ得られるものは大きいのと、それなりの暮らしをしてしまった為、それを手放すのも惜しくなっており、宙ぶらりんの状況だ。自分の好きなことよりも、社会的なステータスとお金を優先した結果だ。その時々のベストは尽くし、今の家族との生活が幸せなので後悔はしていない。ただ、これから20年ぐらい働く中で、何を仕事とするかは考えてしまう。

どちらかというと自分は非属側の人間ではないかと分析しているが、今の職場は属側の人間の巣窟なので、正直気の合う人がいない。それが一番の問題かもしれない。

暗い話になったが、若い人は若いうちに読んだ方がいい本だ。非属の才能に属するのではなく、きちんと距離感を持って消化し、自分の生き方を見つけることができれば幸せな人生を送ることができるだろう。

素敵な本をありがとう、玲司さん。

日本は財政破綻しないけど、それでいいかというと違う。

日本の国債は現在1200兆を超えている。

 

日本は財政破綻すると主張する人もいるし、

外国から借入していないから全然オッケーと主張する人もいる。

結局、どっちなんだ?

 

まず、国の財政破綻ってどういうことだろう?

国債を返せなくなるということだとすると、

外貨建ての債務は外貨準備金で払える範囲なので問題なし。

円建ての債務は、日銀がアホみたいにも国債を買えば絶対破綻しない。

なので、絶対、国は破綻しない。

以上。

 

日銀が国債買えまくれば破綻しないのであれば、

国は国債発行しまくって国民に毎日一億円配ることも可能だ。

そうすれば、みんなお金に困ることなくハッピー。

以上、

って、直感的にもそんなわけないってわかるよね。

どこかで、このお金って価値あるのかとみんな疑い出し、

物に交換し始める。

そうするとインフレが始まり、お金の価値が減る。

現金を持っている人が損することになり、

政治的な富の分配ではなく、結果的に富の分配が起こる。

 

国民が選んだ政治家が政治によって富の分配をするのであれば合理的であるが、

国民が選んでいない日銀の委員が国債やら株やらを爆買いして、

ユニクロの創業者や株主などのお金持ちを優遇して、

結果インフレで現金を持っている人から富を奪うということは合理的なのだろうか。

金融所得の税率より、日銀の株式購入のほうが問題

岸田内閣は、金融所得の税率を上げることを検討中らしい。一億円以上の所得があると、所得税の税率負担が低下しており、それを一億円の壁と言われている。中間層への配分を増やすとの政策の一環として、金融所得への課税を上げることを考えているとのことだ。

個人的には売買益に税金をかけるのは賛成だ。貯蓄から投資への流れを抑えるとの意見もあるが、売買益に20%の税金がついたぐらいで投資をしないのであれば、そもそも投資にお金は流れない。

そんなことより問題なのは、日銀が株式を買っていることだと思う。日銀が株価が下がるとマーケットを安定させるために、株を買っている。それによって株価は高騰し、例えばユニクロはPER40倍以上と通常の目線から外れた株価になっている。そして、それによって利益を得ているのは柳井さんを含め株主だ。日銀の金融政策は政治で選ばれた人が決めているわけではないので、富の配分を行なっており、株式の購入により株主にお金を配っている状態だ。なぜ日銀は、特定の人を優遇する政策をとっているのか。マーケットを安定させるためというが、日銀が買った株式の将来的な処分をどう考えているのか。もし株価が下落して、日銀のバランスシートが痛んだ時、円を保有している一般の人が大きく痛みを伴うのではないのか。そのようなリスクは先延ばししたまま、お金持ちである株主が得をすることを日銀はしており、それによって富の分布は拡大しており、将来的なリスクが高まっている。

金融所得の課税を議論する前に、日銀の政策を議論した方がいいのではないか。日銀は政府から独立しているものの、日銀の政策が富の分配をしていることが問題であり、富の分配はまさに政治が決めるものであるから、政治家による日銀の政策への介入はすべきだ。

岸田氏に日銀に踏み込むまで覚悟もないだろうし、マーケット側からやむをえずという状況にならないと今の政策が続くのであろう。中間層は、日銀の政策を理解している人は少ないので、わかりやすい富の分配だけが検討され、株主だけが得する世界は温存されそうだ。